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考察・メイドとレースクイーン


最終更新: Mon Sep 12 15:30:04 2011


 ここは、なぜオタクにはメイドが人気あるのにレースクイーンにはないのか、ということを考えてみた結果を書き記したページです。


メイドとは何か?

 ここでいうメイドとは、西洋風のメイド服を着て、家事等の仕事を行う女性を意味する。現在人気のあるメイドの一般的なイメージは、以下のようなものだ。

 基本的には、メイド服に身を包んだ従順で可愛い使用人という路線が基本であろう。

レースクイーンとは何か?

 レースクイーンは、車やバイクのレースにおいて、企業ロゴなどをプリントしたコスチュームを着た若いセクシーな女性である。イベントとしてのレースに華を添えると共に、企業の広告塔としての役割も期待されている。

 レースクイーンは広義のキャンペーンガール、コンパニオンの一種であると考えられ、境界は曖昧である。

 肌や身体の線を極端に見せるコスチュームを身にまとっているが、基本的は堅実な企業のために働く女性であり、性的サービスの要素はない。

メイドの構造分析

 メイドが成立するためには、メイドを雇用するご主人様が必要である。メイド好きの者達は、暗黙的に自分をご主人様の立場に置いているものと考えられる。

 メイドとご主人様の関係は、本来は労働の契約関係である。しかし、そのようなドライな割り切った関係は期待されていない。メイドは、ご主人様の身近にあって、身の回りの世話をする。この役割は、一時代前なら「専業主婦たる貞淑な妻」が担っていたものである。そして、メイドとご主人様は、しばしば恋愛関係に陥る。だが、普通の恋愛ではない。メイドは密かにご主人様のことを思い、差し出がましいことはしない。ご主人様もメイドを好きになっても、結婚して正妻にしようと思わないことが多い。このことは、ご主人様から見たメイドの価値は、メイドであることに大きな価値があると考えられる。

 メイドであることは、主に、身分という社会的な位置づけの側面と、独特のコスチュームという外見的な側面があると思われる。社会的な位置づけとしてのメイドは、常に被雇用者であって立場が弱い。圧倒的な立場の差のために、ご主人様と対等にはなれないのである。何かを自ら要求することはできず、ただ、ご主人様がもたらしてくれるものを待つしかないのである。もちろん、本当の労働雇用関係であれば、正当な権利を主張することはできるが、メイド達はそのような明確な権利義務に価値を感じてはいないようである。むしろ、ご主人様にお仕えする御奉公に精神的な価値を見いだしている、あるいは、そのような価値がご主人様から期待されているように見える。

 コスチュームという側面は、そのようなメイドの立場を、目に見える形で明確に規定する。まず、本人はメイド服を着ることで、自らを本当の自分とは違うものであるかのように扱う。それによって、娘は、メイドではないときと異なる精神状態や態度、言葉遣いを取ることになる。また、メイド服を着ていることで、周囲が「この娘はかわいらしいメイドである」と認識することになる。その周囲の認識は、メイド本人がメイドの枠組みから逸脱することを防ぐ精神的な圧力となる。メイドという規範から逸脱すると、「あれは悪いメイドだ」と見られるからである。もし、メイド服を着ていなければ、メイドという規範で評価されないかも知れない。だが、メイド服を着ていれば、必ずメイドとして評価されるのである。

 コスチュームにあるのはマイナス面ばかりではない。女性はメイド服を着ることによって、自分にない価値を自分に取り込むことができる。実際、メイド服は可愛い、という側面がある。ただの服よりも、メイド服を着た方が、より魅力的に見られるという事態は充分にありえる。また、メイド服を着こなすためには、特に素晴らしいプロポーションが必要と言うわけではない。そういう意味で、誰でもメイド服という魔法によって、自分に無い魅力を得られる可能性を持つ。つまり、メイド服を着るというのは、一種の変身である。

 以上のことから、いくつかの推測ができる。女性がメイドになるというのは、ある種の価値を獲得するプロセスであると言える。しかしながら、現実の女性達が、その価値を獲得したいという動きを見せていないことから考えて、現代を生きる生身の女性にはあまり魅力のない価値なのだろう。しかし、現代のオタクの多くはその価値に対して非常に高い価値を置いている。その価値とは、「女はかわいく従順であることで男に愛される」というようなものだと言えるだろう。これは、古典的な男尊女卑的な思想と言えるが、単純に古い思想だからといって頭ごなしに否定するのは建設的ではないだろう。どうして、このような古い思想がオタクに流行っているのか、という分析がなされるべきである。

レースクイーンの構造分析

 レースクイーンが成立するためには、レースクイーンの他に、雇用者とギャラリーが必要である。つまり、雇用者が宣伝媒体としてレースクイーンを使うわけで、宣伝が成り立つためにはそれを見るギャラリーが必要である。

 雇用者は、なるべく多くのギャラリーの目を引くように、レースクイーンとしてプロポーションの良い女性を選び、露出度の高い服を着せる。レースクイーンの価値は、女性そのものの身体的な魅力と、それを演出するコスチューム、そして、レースクイーンという目的を理解して的確に役割をこなすプロフェッショナル精神によって決まると言える。

 基本的に、レースクイーン、雇用者、ギャラリーの間に恋愛感情が生まれることはない。レースクイーンも雇用者も、ギャラリーに対しては、見せるという以上のものをけして与えない。そういう意味で、暖かい心の交流が生じるのは難しい環境であると言える。

両者の比較

 メイドとレースクイーンの間に存在する最大の相違点は、メイドとご主人様の関係はいくらでも接近できるのに、レースクイーンとギャラリーの間は接近できない点だろう。その意味で、レースクイーンなどに入れ込んでも面白くない、という感覚が起こり得る。

 コスチュームにおいても、メイド服は生身の身体を隠してより多くの価値を与えるのに対して、レースクイーンではまず身体がありそれを強調するためにコスチュームがあるという形になる。つまりメイドは誰でもなれるチャンスがあるが、レースクイーンはプロポーションが良い女性しかなれない。それが、レースクイーンにある種のエリート臭さを与えているかも知れない。これは親しみにくいということである。

 しかし、ある種の共通性もある。たとえば、性的な意味が持ち込まれたメイドとご主人様の関係は、軽いSM的な雰囲気を持つ。強い立場のご主人様が、弱く哀れなメイドを支配するということになりかねないからだ。一方、レースクイーンの方は、あからさまに性的な挑発を行っていながら、けして手を出すことが出来ない。この「その気にさせるが与えない」というのは、非常にSM的である。

 この指摘から、「メイドを支配するのが好きな人はサディスト」「レースクイーンにじらされるのが好きな人はマゾヒスト」というような結論に短絡するのは建設的ではない。

 たとえば、ある人がノーマルだと思っている恋愛感が、まさにメイドと行う恋愛のようなものであるという可能性がある。つまり、従順で可愛い女性を、強い男がリードするという恋愛観を、「それが正しい」として刷り込まれている可能性がある。男女関係における女性蔑視の対偶にあるのが、男性は強くなければならない、という価値観である。女性蔑視は改善の傾向があるが、それに対して、男性優位の価値観の改善はあまり進んでいない。そのため、けして強くはない男性が、けして弱くはない女性を守らねばならないと思い込むという現象が起きている。

 この矛盾を解消する便利な道具がメイドであると考えることができる。ご主人様という立場、メイドという立場を持ち込むことによって、男女の力関係が、男尊女卑の方向に強くシフトする。その結果、男性優位の考え方を刷り込まれた男性にとって、居心地の良い関係が出現するのである。

 ここで、下さない男性優位の思想などはやく捨てればよい、と考えるのは容易だが、実際にそれを行うのは容易ではない。なぜなら、社会の風潮として、子供の頃から深く刷り込まれているものだから、何かを心に決めるぐらいで抜け出せるものではない。しかし、現実と大きな齟齬を来している以上、そのような者達の心は傷ついていると考えられる。その傷を癒すためには、現実と彼らの傷の間に横たわるファンタジーが必要である。それがメイドであると考えられないだろうか。

 一方、レースクイーンの方も、そう単純なものではない。警察にご厄介にならない範囲内での徹底的な性的な挑発は、基本的に雇用者が望んだものであって、レースクイーン本人が望んだものではない。仮に、レースクイーン本人が徹底的に男達をその気にさせて、それを見て楽しむということであれば、一種のSMプレイとして成立する可能性はある。しかし、現実にはレースクイーン本人も、仕事として、自分の身体を視線に晒すことに耐えているのである。そして、雇用者も、この構図から何かの快楽を引き出そうとは思っていない。つまり、レースクイーンというシステムは、ギャラリーもレースクイーン本人も、ストレスを増やす方向にしか機能しないのである。ストレスが増えるにも関わらずギャラリーがレースクイーンを見ようとするのは男の本能としか言いようがない。レースクイーン本人がストレスを増やしても、それは仕事であればよくある話である。

 だが、システムの仕組みが見えてくると、別の側面も見えてくる。このようなシステムの中でも、楽しむ方法は存在する。

 極端な言い方をすれば、一般的な男女の関係は、「いい男、いい女と出会って、肉体や精神で愛し合う」ということが目標と言える。このような目標を前提とするならば、このシステムは冷酷であり、一切のハッピーエンドを許容しない。しかし、ハッピーエンドを許容しないことによって、日常的にはできない別のものを解放できるのだと言える。たとえば、女性が自らの身体の持つ性的挑発能力を限界まで試す、というようなことは、普通ならできない。というより、やったら変態の烙印を押されるか、レイプされかねない。だが、レースクイーンというシステムの内側では、女性が性的挑発能力を解放することが、社会の合意の上で保証される。普通の町中で着たら変態の烙印を押されそうな服を着ても、このシステムの中では保護されるのである。

 また、ギャラリーの立場から言えば、システムの内側ではそのような女性を平然と見ること許されるのである。一般の社会では、女性をじろじろ見ることは、セクハラとなりかねない危険がある。しかし、レースクイーンに対しては、視線を解放することが認められ保証される。

 つまり、レースクイーンの仕事をするということは、隠されたある種の自己を見せることを許されるのに等しい。それは、その女性が見せるに値するものを持っていると、社会が認知することだとも言える。これは、女性から見れば、社会からある種の承認を与えられることである。社会から価値を認められ、存在を認められることは、人間誰しも持っている欲求であり、これを実現する一つの手段としてレースクイーンはあると言える。これは別の角度から言えば、「どうして、あんな破廉恥な格好をするレースクイーンになろうとする女性がいるのか」という問いの答えにもだろうだろう。

 一方のギャラリーの立場で言えば、この種の露骨な性的挑発を好きなだけ眺められるチャンスは滅多にない。現実問題として、男から見て、同じベッドで寝ることを許してくれる女性は少なくないと思うが、あのような露骨なコスチュームを着ることを承諾する女性は少数派ではないだろうか。そういう意味で、レースクイーンを見ると言うのは、女性と同じベッドで寝るということよりも、ずっと珍しい体験だと言える。つまり、相手の女性とゴールインすることの価値よりも、レースクイーンを見ることができることの価値の方が、ずっと大きいと考えられるのである。

結論……だろうか?

 ここまでの議論を正しいとするならば、メイドブームは、社会的な性意識の矛盾が生み出した心の傷を癒すために発生したものであると考えられる。メイドブームを表面的に捉えて、これを時代に逆行する男尊女卑として否定することは、本質的な解決にならない。もし、メイドブームが異常状態であり、これは解消されるべきだと考えるならば、その原因を分析、解消することを試みる必要がある。それは、現代の日本社会そのものを相手にすることとイコールだろう。そうでないなら、メイドブームは彼らの心には必要なのだ、と認めることが必要だろう。

 それに対してレースクイーンの存在も、性意識に関する社会的な矛盾の中で価値を持っていると言える。つまり、性は解放されたと言いつつも、多くの慣習的なタブーに拘束されている。女性が自らの性的な魅力を徹底的に見せることは、この種のタブーの一つである。レースクイーンはタブーを破っても罰せられない聖域であるという意味で、大きな価値を持つ。

 これらをまとめると、メイドは今生きている男達のためのもの。レースクイーンは女達のためのもの。と言えるかもしれない。つまり、主役が違うのかも知れない。

 もっとも、メイドブームは生身の女性の参加無しでも成立するが、レースクイーンの方は、見る男達が存在しなければ成立しないものである。その意味で、レースクイーンには、独特のライブ感覚がある。メイドはファンタジーだが、レースクイーンはパフォーマンスであると言える。



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作成:川俣 晶
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