アニメ評論「ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記」
1997年4月6日アップデート
これは、劇場用長編アニメーション「ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記」(1997年3月公開)の感想です。
作品の概要
有名で人気も高い劇場用長編ドラえもんシリーズ。1997年3月公開。藤子・F・不二雄氏は、この映画の製作途上で故人となってしまったので、氏の遺作と言える。
作品のテーマ
この作品で注目すべき点は、「自立」が再度テーマとして浮上している点だろう。
長編ドラえもんシリーズでは、「のび太の魔界大冒険」で、のび太の心理的な自立を扱っている。一人の少女と、淡い恋に落ち、ドラえもんの庇護を必要としなくなる予感を込めたラストシーンは、ある意味で、ドラえもんの最終回と言えるかもしれない。だが、その後制作され続けたシリーズでは、のび太は、自立など考えられない子供そのものとしてえがかれるようになり、ドラえもんへの依存は当然のこととして、描かれている。
問題は、「のび太の魔界大冒険」で描かれた「自立」と、「ねじ巻き都市」で描かれている「自立」が、意味的にまったく違う点でである。
「ねじ巻き都市」では、「種をまく者」がのび太に対して、問題は自分たちで解決せよ、と告げ、自分が種をまいた星から離れ、新たな星に種をまきに行ってしまう。あとは自分たちの力でなんとかしろ、という「自分たち」というのは、言うまでもなく「のび太達」である。だが、「のび太達」が、のび太とレギュラーの仲間達(ドラえもん、スネ夫、ジャイアン、しずか)、であるという期待は、あっさりと裏切られる。「種をまく者」は、のび太達が作った文化と住人一切合切を含めて、彼らが植物達から受け入れられたと言い、自分を頼らず、自力で問題を解決せよ、と言ったのである。
そこでの主体は、実はのび太ではなく、のび太らによって、自分で動く体と心と知恵を授けられたぬいぐるみ達なのだ。彼らこそが、ねじ巻き都市の正当な住人である。彼らは、市長を選挙することで政治的なシステムを整え、環境に優しい新しい技術を開発する。それだけでなく、彼らの造物主であるのび太達にも、意見を述べ、それを訂正させるのである。
物語の構図としては、「種をまく者」によって作られた植物達と、のび太達によって作られたのじ巻き都市の住人達が、造物主である「種をまく者」や「のび太達」に依存しないで自立して生きていく、と考えられる。
この構図の中で、のび太達は、観客が感情移入する対象でなくなってしまう。のび太は、不思議な力を行使するグループの代表者であり、特別なイベントのときにだけやってくる異邦人なのだ。
それゆえに、「ねじ巻き都市」における「自立」とは、「観客」のドラえもん世界からの自立である、と考えるのは飛躍しすぎだろうか。
もちろん、観客がドラえもん映画から自立してしまい、見に来なくなったら困るわけだが、藤子・F・不二雄氏が、自ら手がける最後の作品だと、自覚して(あるいは無自覚に)作っていたとすれば、ある意味で納得ができる。
我々は、永遠に、藤子・F・不二雄という巨人にいつまでも頼っている訳にはいかないのである。あるいは、いつまでも、永遠にのび太を甘やかし続けるドラえもんというキャラクターに依存し続けることはできないのである。
この映画のラストシーンは、これを象徴しているように思える。どこでもドアで、ねじ巻き都市を去るのび太達なのだが、カメラの視点は、残る住人達の側にある。そして、「さよなら」を告げるのび太達は、どこでもドアの中に消え、去っていく。エンディングは、「種をまく者」が新しい星に生命を宿す光景であり、元の世界に戻ったのび太達を追いかけては行かない。
この別れのシーンこそ、我々と、のび太達との、そして、藤子・F・不二雄氏との別れのシーンであるかのように思える。
もちろん、今後も、ドラえもんという作品の制作は継続するだろうが、それは、もはや、今までのドラえもんではない。その事実だけは、変えようがないのである。
だが、悲観することはない。作品中で、のび太達は、植物達と、「種をまく者」によって認めらる。自力で問題を解決できると認められるのである。これを藤子・F・不二雄氏が、後に残る者達を認め、あとは自分たちが自力でやれ、と告げたのだ、と解釈したら、空想が過ぎるだろうか。
少なくとも、この作品を見る限り、藤子・F・不二雄氏は、未来を悲観して死んだ訳ではない、と感じられた。
氏の冥福を祈る。
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作成:川俣 晶
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