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侵略戦争と農本主義


最終更新: Mon Sep 12 15:30:15 2011


軍隊を欲しがる保守系国会議員

 個人的な印象で言うと、保守系国会議員には、自衛隊ではない軍隊を欲しがっている議員が多いと感じられる。その正しさよりも、バックグラウンドのメカニズムについて考えてみたい。

 彼らの主張は私なりにまとめると、以下のようになる。

 一般的な世論調査などでの国民の意見の大勢は、軍事的な危機が発生するリスクを認めて自衛隊が存在することは認めているものの、それが一般的な軍隊になることには、一貫して消極的である。

 自衛隊の充実では駄目で、どうしても自衛隊を軍隊に昇格させたいという主張は、裏を返せば、専守防衛ではなく、他国に軍隊を出したいのだという意思表示と受け取れる。つまり、戦争である。この問題は、戦争をしたいと考えている彼ら保守系国会議員と、戦争を望まない民意の間の意識の食い違いであると考えられる。

 しかし、どこからどう見ても戦争は儲からないことが明らかであり、日本人は先の戦争でそれを充分すぎるほど学んだにも関わらず、未だに戦争をしたいと考えている人達が存在するということは、とても不思議である。

 しかし、農本主義という考え方を持ち込むと、一つの筋の通った説明ができるのではないかと思い付いた。

農本主義的な利益拡大とは

 農本主義においては、富とは土地が生み出す農産物(米)であると考えられる。中央政府が手に入れる富は、この農産物かあるいは、それと等価と見なせる他の物品や金である。基本的に、農産物の生産量は常に一定になることが期待されている。余剰農産物など作って特定の地方が豊かになったりすると、中央政府に逆らおうなどと余計なことを考えるので、生産性向上にも否定的である。

 これを単純化して簡単に言い直すと、中央政府の得る富とは、農地の総面積×面積当たりの生産量×税率ということになる。「人間はより多くの富を得たいと望む」という原則が中央政府にも適用されるとすれば、当然、中央政府はより多くの富を欲する。あるいは、必要とする。では上記の数式の中で、最も容易に変更できるものはというと、税率である。しかし、税率を引き上げると言っても、ものには限度がある。農民を餓死させたら、富は逆に減ってしまうのだ。では、面積当たりの生産量を改善するというアイデアはどうかというと、これは、どの土地でも同じ収穫量という原則を崩し、国内に地域格差とそれによるトラブルを抱え込みかねない危険がある。つまり、中央政府そのものに刃を突き付ける結果になりかねない危険がある。だから、この手段は選択できない。とすると、残りは、農地の総面積の拡大しかない。

 農地の総面積は、新しい農地を開拓することで増やすことができる。しかし、農業はただ土地だけあれば良いというものではなく、水や太陽も必要である。特に水資源は有限であるので、支配地域内での農地開拓には限界がある。日本の主要な土地では、開拓できる場所はとっくに開拓済みであろう。

 とすれば、残された手段は一つしかない。国外の土地を支配下に組み入れることで総面積を拡大するのである。すなわち侵略戦争である。

侵略戦争になぜ罪悪感が無いのか

 侵略戦争といえば、悪行であると受け止める人が多いと思うが、なぜか彼ら保守系国会議員には、そのような罪悪感が無いらしい。

 農本主義においては、土地と民に個性を認めない。これらは、常に一定の生産量があることを期待されているだけである。人間が別の土地へ移動することも認めない。従って、それは「所有することで一定の富を生み出す装置」と考えられる。

 この認識は、あまり現実的ではなく、農本主義が実現すべき理想型であると考えた方が良いかもしれない。

 ここで注目すべきことは、戦争によってやりとりされる土地や人は一種の装置と見なされ、人格を認められていないことである。

 従って、農本主義的な戦争とは、軍事力によって富の発生装置の所有権を争奪するゲームであると言える。実際にやりとりされる人間がどのような考えを持つか、などとは思わない。従って、他国に自分の土地を踏みにじられた人間の怒り、などというものも、存在しない。あると言われても、そんなものは存在しないと一蹴することになる。

 つまり、農本主義的な戦争は、富の発生装置の所有者の間で行われるものであって、それに関して、装置そのものが発言することはあり得ないと考えられる。富の発生装置の所有者が、別の所有者に対して、正当な宣戦布告などの手続きを行い、土地の所有権を実力で奪い取り、それを戦後交渉で確定されれば、正当な所有権が移行されたと考えられる。

 このような考え方に立って考えれば、農本主義的な考え方を持った者達が、侵略に罪悪感を感じないということが理解可能になる。富の発生装置は、利用するべきものであって、自己主張するものではないからだ。

農本主義的侵略戦争の問題点

 このような理想的な侵略戦争は現在はもう起こり得ないと考えられる。

 まず、侵略行為に対する国際世論は冷たい。侵略して、土地を増やしたところで、国際的に孤立する可能性が高い。更に、様々な制裁を加えられる可能性もある。つまり、富を増やすどころか、富を減らす可能性が高い。

 また、現代においては、戦争行為そのものが、非常に高くつく。現代の軍隊は金が掛かるのである。それだけのコストを払うに値するだけの富が得られるか、かなり疑問である。実際に、その種の侵略戦争を第2次大戦後の先進国はほとんどやっていない。むしろ、戦争当事国に武器を売る方が、ずっと儲かるということだろう。

 それに加えて、人間は従順な富の発生装置ではない。まったく異なる人種、文化を持った民衆を統治するには、高度で精緻な統治技術が必要とされる。しかし、全体を一つのルールで統治するのが農本主義的なやり方である。このような、画一的な統治方式がうまく機能しないのは、日本の植民地支配の経緯を見れば明らかである。強引に画一的な統治を進めようとするなら、軍事力による強制しかなく、これはコスト高になり、しかもハイリスクである。とても儲かるとは思えない。

 これらの点から考えると、侵略戦争は、富を拡大する手段として不適切である。(もちろん、他の手段として考えても不適切なのは間違いない)

 意識的か無意識的か分からないが、一般的な日本人は、侵略戦争には反対のようである。それは賢い選択であろう。日本人は愚かだ、などと言ってはいけないのかもしれない。

まとめ


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作成:川俣 晶
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