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以心伝心の必然


最終更新: Mon Sep 12 15:30:15 2011


以心伝心とは何か?

 日本人は自分がして欲しいことを明確に口にせず、言わずとも察することを以心伝心と称している。これは、日本的な美徳とも言われるが、国際通からは日本人の短所であると言われる場合もある。少なくとも、日本人以外を相手に、以心伝心は通用しないことは確かだと思われる。このことから、以心伝心は日本人が世界に通用しない原因の一つと言われる場合もある。

 辞書的な意味は以下の通りである。

いしんでんしん [1]【以心伝心】
        (1)〔六祖壇経「法即以レ心伝レ心、皆令二自悟自解一」〕
        禅宗で、言葉では表せない仏法の神髄を無言のうちに弟子に伝えること。
        (2)考えていることが、言葉を使わないでも互いにわかること。
三省堂 『大辞林』

 ここでいう以心伝心とは、2番目の意味と言える。

以心伝心は本当に機能しているのか?

 現実世界では、長年連れ添った夫婦や、何もかも知り尽くした仕事上のパートナーなど、深い関係にある者達では、本当に「以心伝心」と言う現象が起きているケースがある。しかし、日本の誰もが以心伝心をもって意志疎通ができるのかというと、そんなことはない。現実には、ちょっと疎遠な相手との間には、常識の隔たりがあり、そう簡単に以心伝心は成立しない。一口に日本とか日本人といっても、所属する組織や社会ごとに、慣習の違いが多く存在し、別の村、別の会社、別の部署、別の家に行く、それだけで事実上の異文化接触になってしまうことがある。このような状況から考えて、以心伝心が成立するのは、ごく親しい関係だけで、一般的には成立しないと考えるのが適切だろう。

 にも関わらず、以心伝心が日本人の心であるかのように言われるのはなぜか。これは、既にいろいろ述べてきた農本主義の考え方を見れば一目瞭然と言える。つまり、農本主義において、一般人は生まれた土地から別の土地に移動することはないのが原則なので、問題が起きるはずがないと考えられるわけである。実際に移動することによって以心伝心が通じない場合があるとしても、そもそも、移動したことが悪であるのだから、それが文化の欠陥として問題視される段階にまで進まないと考えられる。

 しかし、人、物、カネが激しく移動する現代において、日本国内であっても、以心伝心を前提としていたら、やって行けないことになる。たとえば、何かの契約を行う際に、契約内容を明確にしなかったためにトラブルになる、というような事態は日常茶飯事と言える。まして、現代では人、物、カネが容易に国境を越えるのである。一応、同じ日本語を喋り、同じ日本の義務教育を受け、同じテレビ番組を見ている人間どうしですら以心伝心は成立しないのに、まして海外である。

 以心伝心が美徳かどうかと悩むことに、さしたる意味はないと考えるべきだろう。つまり、以心伝心という伝統を無理に残すことは、現代の日本人にとって、何ら益をもたらさない。従って、これを残すという選択肢はあり得ない。

なぜ以心伝心は生まれたのか?

 ここで疑問が生じるのは、なぜ以心伝心という、明らかに機能しない慣習が生まれ、しかもそれが美徳としてもてはやされていたのか、ということだ。これが生まれた理由が、日本人ならではの独特の特質であるというような日本特殊論は採らない。何か明確な理由があるはずだと考えてみた。

 実は、農本主義のある種の性質に注目すると、以心伝心という文化が必然的に成立するのではないかと気付いた。

 その性質とは、農本主義そのものというよりも、農本主義の周辺に存在する固定的な権益に由来するものと考えられる。

 農本主義においても、国家を維持運営するために、階層的な組織が作られ、各々の階層には役人や各地の代表者などが入って、実際の運営を行う。これらの地位は、既得権益化され、それが極端になると世襲される場合もある。世襲まで行かなくても、一度掴んだ権益は引退するまで絶対に手放さない、という態度を取ることになる。

 農本主義的な世界観においては、基本的に、毎年同じことが繰り返されることが基本であり、努力して何かを付け加えることは期待されていない。従って、何もミスを犯さないことが、立場を守ることにつながる。

 しかしながら、自然を相手にする農業において、毎年必ず同じ収穫が得られるなどということを期待するのはナンセンスである。従って、期待と現実は常にギャップがあると考える必要がある。

 さて、ここからがポイントである。統治システムの中間に位置する地位を持っている立場として、配下の土地が期待通りの収益を生まなかった場合、自分の責任を回避するにはどうしたら良いだろうか。答は簡単で、部下に責任をなすりつければ良いのである。では、どうすれば部下に責任をなすりつけることが出来るだろうか。自分が傷つかずに部下に責任をすべて被せる最適な手段は、「私は正しく判断したのに、部下が私の意志通りに動かなかったから」という状況を造り出すことである。では、どうすれば、このような状況を造り出すことができるのだろうか。もちろん、ここで仮定している主人公の彼が、最初から正しい判断などできるはずがない。とすれば、採れる方法は一つしかない。つまり、「自分の意見を曖昧にしておき、部下に解釈させる」のである。部下の解釈が結果的に正しければ、自分の手柄にできる。しかし、部下の解釈が間違っていれば、部下が自分の意見を正しく解釈できなかったからだ、と部下の責任にできる。まことに便利な方法論と言える。

 これは、今日の視点から見れば、まことに無責任で卑怯なやり方に見えるだろう。しかし、国家統治機構の内側の人間の立場から見れば、最下層を除けば、誰にとっても歓迎すべき手法ということになる。従って、このような手法は、喜んで(しかし、こっそりと)受け入れられたものと思われる。更に、このような手法の正当性を確立するために、「はっきりと口に出さないことが美徳」という価値観が、あたかも不変の真理であるかのように語られるようになる。

 ただし、以心伝心というテクニックで部下に罪をなすりつけることが常に成功するわけではない。監督責任というものを取らされる場合もあるので、万全ではない。しかし、「部下に責任をなすりつけて自分たちは責任を取らない」という暗黙の了解が存在する場合は、非常に有効に機能する。

以心伝心を褒め称える人達とは?

 以心伝心を、ただ単に「ギラギラした欲望を表に出さない、ちょっとした心遣い」というような意味で受け止めている人達もいる。確かに、欲求をストレートに表現しないことが心地よいと感じる人達は存在する。しかし、欲求をストレートに表現せず、間接的に表現することと、態度を曖昧にして何も確かなことを伝えないことは、意味的にまった違うことである。ここで述べている以心伝心とは、前者のような欲求の間接表現のことではなく、後者のような責任回避のための曖昧な態度のことである。

 よく考えると分かることだが、前者のような行為を、以心伝心と呼ぶのは適切ではない。なぜなら、何もせず心で伝えようとしているのではなく、間接的な表現という意識的な自己表示を用いているからである。そういう意味でも、本来的な意味での以心伝心とは、純粋に心を持って心を伝えるという意味に考えるべきだろう。

 このような意味で捉え直したとき、以心伝心を褒め称える人達とは、はたしてどんな人達だろうか?

 基本的には、意志疎通が明確になることによって不利益を受ける人達と考えるのが自然であろう。別の角度から言い直せば、根拠があまり明確ではない既得権益を持った人達と言うことができるだろう。つまり、過失がなければ既得権益を維持できるが、過失があればそれだけで権益を失いかねない立場にある人達であると考えられる。以心伝心を褒め称える人達は、そのような立場を持った人達であると考えるのが自然だろう。

まとめ


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作成:川俣 晶
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