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オータム写真館・京王線新宿付近廃線跡をたどる


最終更新: Mon Sep 12 15:30:53 2011


 ここは、2000年10月16日に、京王線の新宿付近の地上線路跡地を撮影してきたデジカメ写真を公開するページです。

 2000年10月16日の時点での終着駅・四谷新宿の位置の推定が間違っていたため、2004年12月18日にこの部分のみ新たに撮影して別途ページを作成しています。そのため、これに該当する部分は、当該ページへのリンクによって置き換えられています。


撮影機材:Nikon CoolPix 880 (ただしnetpbm等で加工されています)
サムネール画像をクリックすると、大きな画像が表示されます。

京王線の廃線跡とは?

 新宿と八王子の間を結ぶ関東の私鉄である京王線は、当然のことながら、新宿に駅を持っています。しかし、これに関しては、歴史的に様々な紆余曲折を持っています。それに関する書物上の知識は合ったのですが、最近になって「地形図で見た鉄道史 東日本編」(今尾恵介著)という本を買って読むことで、地図との対比という形で興味が出てきました。何しろ、新宿と言えば、日常的に出入りしている街であり、興味の深さもひとしおです。この日は、パスポートの受け取りのために新宿の都庁に行く用事があったのですが、受取窓口には行列もなく、いともあっさりと受け取ることができたので、あまった時間を使って歩いてみることにしました。それから、デジカメのCoolPix 880の慣らし運転的な意味もありました。ところが、実際に歩いて撮影した後で、駅に向かって戻る途中、紀伊国屋書店で古地図の特設販売をやっており、ここではまって4枚ほど古地図の複製地図を買ってしまいました。これと対比することで、更にいろいろなことが判明しましたので、そのことも合わせて記載します。

 なお、駅名や駅順は時代によって変化します。ここでは、「大東京区分図三十五区之内渋谷区」(昭和16年発行、本物は旧字体で表記)を基準として、特に記述無き場合はこれに従うものとします。そうではない場合は、特記します。

2003年10月7日追記・藤吉孝二さんよりの情報

 藤吉孝二さんより、このページへ頂いた電子メールを以下に掲載します。一部、本文の間違いを指摘されていますので、本文を読む場合は、そのあたりを参考にしてお読み下さい。

前略

 先ごろ「オータム写真館・京王線新宿付近廃線跡をたどる」を拝見しました。 私は、小学校の途中から初台近辺に居住し、また郷土史に興味を持っているので、大変興味深く、また楽しませていただきました。 ただ、いくつか気のついた点があるのでお知らせ致したいと思い、メールを差し上げる次第です。

 まず、京王線の廃線の位置についてですが、ほぼ現在の京王線の地下線部分と同じはずです。(これは天神橋界隈以西のことで、それより東側はご存知のように路面電車でした。この区間の現在の京王地下線は、玉川上水の水路跡に建設されています。) これは現在発行されている都市地図などにも点線で記されています。そして、京王線の南側には、かつては玉川上水旧水路が流れていましたが、現在は暗渠となっています。写真と文で紹介されていた廃線跡には、この玉川上水の水路跡が大分含まれているようです。

 また、京王線が地上を走っていた頃より甲州街道は大分道幅が拡張されています。写真や文章で紹介されている「新町」は、甲州街道と玉川上水に挟まれた細長い町で、江戸時代から街道筋に町屋が続いていました。ただ、相次ぐ道路の拡幅によりだんだん土地が狭くなってしまいました。文化服装学院前の奥行きの狭い建物郡はそんな経緯で生まれたものです。

 これらの不自然な建物のすぐ裏の遊歩道の甲州街道よりの部分が京王線の廃線跡、その反対よりの部分が玉川上水の水路跡です。この辺では京王線(地下線)は、玉川上水水路跡の敷地も使用して建設されたと書かれたものを読んだ記憶があります。 なお、近くの旧天神橋駅跡には、京王腺のための変電施設が現在もあります。この施設(の何代か前の施設)が空襲で破壊されたために電圧が低下して南口の陸橋を上がれなくなったわけです。ちなみに南口の陸橋は大正時代に建設されたもので、横に継ぎ足し、継ぎ足しして現在の広さになりました。強度上の問題もあり、現在少しづつ架け替え工事が進んでいます。

 最後に、終着駅・四谷新宿駅の位置ですが、写真で紹介されている新宿東映の隣にある京王新宿ビルがかつてのターミナルビルの位置です。駅が廃止になった後も、ターミナルビルは長らく京王帝都の本社ビルとして使用されていましたが、バブルの頃に本社は聖蹟桜ヶ丘に移転し、現在のビルに建て替えられました。京王系の映画館があったのはこのビルだと思います。

 甲州街道に面したビルの裏は空き地で、塗り壁のようなビルの背中が見渡せました。この空き地が廃線跡だったわけですが、最近そこにもビルが建ちました。なお、このあたりの甲州街道は、新宿御苑に沿って四谷公会堂(旧四谷区役所で、これも立て替えられました)続いていましたが、トンネルの建設や道路の拡張・変更で大分様子が変わってしまいました。

 以上、近隣の者が少々気付いた点としてお知らせ致します。楽しいページを有難うございます。

  藤吉孝二

新町駅付近

 現在の京王線では、新宿に最も近いのは、京王新線の初台になります。しかし、かつては新宿と初台の間に、新宿方面から、新町、天神橋、神宮裏という3駅が存在しました。ちなみに、標準的な駅間距離は1キロメートル程度だと思われますが、新宿初台間の距離は1.7キロメートルほどあり、中間に駅があっても不思議ではないと言えます。しかし、3駅も入るのは、明らかに多すぎです。このうち、神宮裏というのは、明治神宮の裏手に近い駅で、ここで降車して明治神宮に行くことも可能であったと思われます。

 昭和16年当時には、京王線はほとんど専用の路面を用いていましたが、新宿に近い場所では、途中の1駅周辺と、新町から先に関しては、甲州街道の一部を使用していたようです。天神橋から新町の間は、甲州街道のすぐ南側を併走するような形で線路が敷設されていたようです。

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↑この写真は、新町駅跡地(の甲州街道の向かい側)のやや八王子よりの位置から、八王子方面を撮影したものです(KDDビルに近い交差点)。甲州街道の向かい側に、道に沿った細長い建物が連続して建っていて不自然に見えますが、ここがかつて京王線の線路があった場所ではないかと思われます。文化服装女学院の手前の不自然な細長い土地、というと分かる人もいるかもしれません。ただ、この不自然さは、現在存在する京王線(新線ではない方)の地下トンネルの上に高い建物を建てられないという事情が存在する可能性はあります。廃線跡と地下トンネルの位置は厳密に一致していないようなので、不自然な建物が示すものが廃線跡か地下トンネルなのかは、明確ではありません。

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↑これは、同じ位置から新宿方向を見たものです。この写真は、新町駅から先を撮影する形になっていて、ここでは京王線は甲州街道の脇ではなく、中央を走っていたものと思われます。ですので、道の脇に不自然な土地や建物は見られません。

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↑新町駅前(跡地)の交差点から八王子方面を撮影。写真の左側を見ると、そこだけ道幅が広くなっているのが分かります。おそらく、このあたりに新町駅が存在し、そこを出たところで、線路は甲州街道脇から甲州街道中央に入り込んでいたものと思われます。また、先に説明した道路の左側の建物の不自然さも分かります。

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↑同じ位置から新宿方面を撮影。この道路の中央に、京王線の線路があったものと思われます。ただ、末期においては自動車と電車が同じ場所に混在する方式ではなく、柵によって電車の走る場所と自動車の走る場所が区切られて、厳密な意味で路面電車ではなかったようです。

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↑信号を渡りきった南側から、八王子方面を撮影。この不自然に道が広がっている部分に、おそらく、新町駅があったものと思われます。そして、新町駅を出たところから、線路は甲州街道脇から中央に移行したものと思われます。おそらくここには、自動車と電車を衝突させないための交通信号もあったのでしょう。

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↑上記信号の少し八王子側の路地を入ると、不自然な細長い公園があります。その公園の新宿方面を撮影したもの。いかにも廃線跡のように見えますが、ここは新町駅から新宿よりであるため、線路があったはずがありません。おそらく、ここは京王(旧線)の地下路線のある場所なのでしょう。つまり、この公園の地下に、京王(旧線)が走っているということなのでしょう。こうやって南側に線路の位置がずれるというのは、京王線新宿駅に進入するカーブの半径を大きく取るためだと思われます。

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↑同じ公園を八王子方向に撮影。

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↑同じ公園の八王子側の終わる場所まで行って、撮影。これを見ると、不自然に高い建物が存在しない土地が細長く続いていることが分かります。おそらく、京王(旧線)がその地下を走っているのでしょう。

ルミネ前交差点

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↑ルミネ前の交差点。手前が八王子方面。奥が新宿駅南口。右が代々木方面。左が新宿駅西口となります。

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↑同位置からズームで新宿駅南口方面を撮影。昭和16年当時京王線は、この道路の中央をそのまままっすぐ南口方面に進んだものと思われます。(※1)

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↑同交差点。代々木方面を背後にして、新宿駅西口方面を撮影。右手が新宿駅南口方面。左手が八王子方面。昭和16年当時、京王線は、この交差点を左から右にまっすぐ抜けていたことになります。そして、このあたりに、「駅前」という珍妙な駅名の駅が存在した模様です。(地図によれば、昭和16年当時、京王線に新宿という駅名は存在しません)

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↑同交差点。アングルはちょい右にずれただけで、前の写真とほとんど同じ位置と角度で撮影したものです。太平洋戦争の末期に、電圧低下によって新宿駅南口の坂を電車が上れなくなり、そのため、急遽この位置で線路を90度カーブさせ、現在の京王デパートの位置(写真でいうとルミネの奥のビルの位置)に、京王線の新宿駅を設置したという話です。その話からすると、当時はルミネの位置に建物はなく、そこに向かって、甲州街道中央を進んできた京王線の線路はカーブを描いていたと思われます。これにより駅前駅は消滅して、京王線の新宿駅が成立したものと思われます。当時は、JRのホームの西側に小田急のホームが並び、更にその隣に京王線のホームが並んでいたようです。ただし、戦時中は、関東の私鉄はすべて国策として東急に合併させられていたため、小田急も京王も「東急」の一路線でした。

新宿の難所

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↑戦時中に京王電車が上れなかったと思われる坂の上から八王子方面を見下ろした写真です。それほど厳しい坂とも思われませんが、電圧が低下した中で、生活物資を手に入れるために必至になった人達を山ほど載せては、この坂を上ることも苦しいのでしょう。

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↑同じ位置から新宿方面、といより四谷方面を撮影した写真です。左に見えるのがJR新宿駅の南口です。この右手に、高島屋があります(写真範囲外)。この下は、JRと小田急の線路です。

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↑南口から新宿南部の再開発地区に渡るための地上橋の上から八王子方面を撮影したものです。※1の写真に写っている地上橋がそれです。

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↑同じ位置から四谷方面を撮影した写真です。この道路の中央を京王線は走っていたものと思われます。

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↑JRの線路を乗り越えるために上がった坂ですから、下りなければなりません。これが下りる坂です。勾配の下り始めの位置から四谷方面を撮影したものです。

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↑坂の中程から先を撮影。ちょっと分かりにくいですが、中央の背の低い建物の位置が、かつての京王線の終点のあった位置です。

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↑坂を下りきった場所から振り返って、八王子方面を撮影したものです。かつての京王線は、この坂も上らねばならなかったわけです。

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↑坂を下りきった場所にある交差点を渡ってから更に振り返って撮影したものです。奥が八王子方面です。ここは昔から立派な道路であったようです。その中央を京王線が進んでいたのでしょう。関東大震災までは、この交差点で京王線は右にカーブして、そこに終着駅があったようです。

終着駅・四谷新宿

 2000年10月16日の時点での終着駅・四谷新宿の位置の推定が間違っていたため、2004年12月18日にこの部分のみ新たに撮影して別途ページを作成しました。以下のページへお進み下さい。

京王線新宿付近廃線跡をたどる 〜終着駅・四谷新宿〜

京王線廃線跡と都営新宿線

 実は、戦前の京王線の路線と、都営新宿線の新宿から新宿3丁目までの路線は、極めて酷似しています。もちろん、地上と地下の違いはありますが、経路はそっくりです。ただ、編成が長大化しているため、駅の位置がちょっと違います。新線新宿は、京王線の「新町」から「駅前」に相当する位置にホームがあります。つまり、従来の一駅分の距離に匹敵する長さのホームが現在は存在しているということです。新宿3丁目に至っては、離れた位置に、ずっと長いホームが存在しています。

 とはいえ、都営新宿線の新線新宿から新宿3丁目までの間が、太平洋戦争で失われた京王線の区間の生まれ変わりであるという考え方は、けして間違いではないと考えます。実際に、このあたりは、昔ながらの新宿の中心であり、未だに、このあたりに行く用事は無くなりません。京王線から直通で行ける便利さは良いものです。

 しかし、新宿3丁目は都営線の駅であり、一駅分だけ、やけに高い都営運賃を払わねばならないのはイマイチ面白くありません。仮に、京王線がここまでの路線を維持していれば、京王線の割安の運賃でここまで来られるはずなのです。ついでに言えば、丸の内線方面に乗り換えるときも、新宿3丁目で乗り換えるという選択が取れ、便利であったかも知れません。

 しかし、そのような夢は、夢で終わり、現実には京王線は新宿西口が終点となったわけです。それはマイナス面だけではなく、西口の京王線駅跡地には京王デパートが建設されて、西口繁栄の礎となったという事実もあります。今日のように新宿と言えば西口という時代が来た理由の一つが、京王線が西口を終点としたことにあるのも、また事実でしょう。



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作成:川俣 晶
電子メールアドレス/ autumn@piedey.co.jp