「シヌノラは自分の意志で意図的に西部に来たのか?」の最後で、以下のように結論をまとめました。
シヌノラの西部行きは、以下の2つの側面があると見て良いのではないかと思います。
- 好みの固い男性自身を調べるために、意識的に行くことを選び取った
- もはや未来のない亡命貴族の世界からの決別
残った問題は、これらの目的を達成するために、多数の男達から犯されまくるという状況を受容可能であるかです。
ここでは、この残った問題を検討します。
問題は「強制的に犯される状況を自発的に選び取る」リアリティ §
問題をより具体的に表現し直してみましょう。
- 自分が男から犯されるにあたって、相手を自由に選ぶことも拒否権もない立場に立つことを
- 自ら意識的に選び取るということが
- 現実はともかくとして、フィクション上のリアリティとしてあり得るのか?
最後の問い掛けから分かるとおり、今回は作品の分析ではなく、作品の外部に根拠を求めることになります。
映画「昼顔」 §
ここで、映画「昼顔」を援用しましょう。
これは1967年のフランス映画です。何不自由なく暮らす金持ちの若奥様が、自分から望んで夫に内緒で昼間だけの娼婦として働くという内容です。
娼婦である以上、相手のえり好みはできません。
彼女を選んで金を払う男がいれば、誰であろうとも受け入れねばなりません。
しかし、彼女はその状況を自発的に喜んで受け入れます。
娼婦として金を稼がねばならない金銭的な状況などなにもないにも関わらず、喜んで受け入れるのです。
しかも、昼間だけ、夫に内緒で。
では、このようなインモラルな映画は誤った存在として忌み嫌われているのかというと、そうではありません。
名作の1つとして高く評価されていて、おそらくは芸術の範疇として鑑賞される対象なのでしょう。
つまり、このような淫らさを発揮する若い裕福な女性とは、(現実世界でどうかは別として)フィクションの世界では許容され肯定されるリアリティであると考えて良いでしょう。
ですから、高貴で裕福なお嬢様として生まれながら、「相手を選べず強制的に犯される立場」を「自ら望む」女性は、存在しうるリアリティの範疇内に存在すると見なすことができます。
これはもう、そういうものだと思うしかないものです。
フランス文化・フランス女性の特質 §
映画「昼顔」はフランス映画であり、主人公はフランス女性です。シヌノラも、フランスの亡命貴族第4世代と推定しています。つまり、両者は同じ文化の流れの上に存在すると見ることができます。
では、フランス文化とはどのようなものでしょう。
芸術の街、パリに代表される文化的なイメージもありますが、それと同時に新しいもの、異質なものを寛容に受け入れる文化的な傾向もあります。たとえば、異民族を異なると認めた上で迎え入れる寛容さは、他の欧米先進国よりも大きいのではないかと思います。
一方で、パリは「恋の街」でもあり、様々なしがらみを乗り越え、立場や人種すらも越えて男女が結びつきます。
白人ではない男を、何のためらいもなくストレートに愛することのできる強さこそ、まさにフランス文化らしさと言えるような気がします。気がするだけですが。
そういう意味で、シヌノラとはまさに異国にいながらフランス文化を継承する、フランス文化の体現者と言えるのかもしれません。